いつまで夏のつもりですか

0817

 

メモ書きが日付と一緒に残っていたけど、

当時何を考えていたのか詳細には思い出せないので、

そのまま公開しちゃおうシリーズ

 

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・去年の今ごろの自分と比べたらマシになったことがたくさんある

・好きなものが増えた

 

・周りと比べて焦るのもまあわかるけど、比べても仕方がなくて、自分が何をしたいのかにフォーカスしてやっていくしかない

・不満を解決しようと思ったら手を動かすしかない

・むしろヤキモキして身動きが取れなくなることがストレス

・傾向として、しんどい時は大体視野が狭くなっていて、翌日の打合せのこととかしか考えられなくなっていることが多い

・短期的に見てどうしようもないみたいなね

・けど長期的に見たら大したことないことも結構ある

・視野を狭めて不幸になるのはもったいない

・ちょっとはマシになっている自分から、未来の自分はさらにマシになっていることと思う

・異動する前は、異動すれば変わるかもと思っていたことの多くは変わらない。当たり前で、変えようと思わないことは変わらない。自然に変わるなんてことはほぼないと思う。一個一個手を付けるしかない。

・自分の未熟さ、足りなさ、変わりたいと思っている部分を見ると無限にも思える量で絶望するけど、そもそもすべて解決されることなんてないんじゃないか

・ずっと未熟な自分と付き合っていくしかない。ぬか喜びと徒労の繰り返し?ミサトさんも言っていた。

・そう思うと、理想とのギャップを見ても仕方がない。比べるべきは過去の自分みたいなことを聞くけど、そういうニュアンスなのかもしれない。

・その中でいい感じのゴールをちょっとずつ設定して達成に向けて努力できる人はえらい

・大事なのは近づいていく意志だ、とのこと

  

深呼吸して見える景色は違うはずだわ

2021年5月9日(日)

 

ひとに親切にとか、正しく生きるとかそういうことを気にしすぎて、

思考停止しがち。道徳の教科書が正しい!みたいな。

道徳の教科書に同意できる素直な気持ちと行動を、自分に強制している。

 

正直、人に親切にするより自分に親切にする方が先でしょ。

どうしようもない欠陥を抱えていると思いながら、真人間みたいな面して人と話すなんてしない方がいい。

 

人と話すとき、つい条件反射で答えてしまうことがある。多い。

夏はあつくて鬱陶しいし、労働は何一ついいことがないし、無職が最高といった、どこかで聞いた感想が口をついて出る。

実際は夏はちょっとウキウキするし、仕事にも楽しい瞬間はあるし、無職はうまく楽しめないタイプな気がする。

そういった自分の中での一般常識と思っているもので縛ってコミュニケーションをしている。

別に誰もが同じように考えてるわけでもないし、その必要もないのに。

自分の感覚から出た言葉ではないので、実感のないコメントになるし、

続かないし、自分のことを理解してもらう助けにもならない。

単にボールを打ち返している。

 

お腹のボタンを押すと事前に登録してある音声が出るぬいぐるみ、みたいなコミュニケーションは、自分で自分の口を塞いでるようで疲れる。

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書いていて思ったけど、この話は常にそういうコミュニケーションしか取れないというものではない。

そうでないやり方で友達と話しをすることもある。

 

危ない危ない。

問題を発見すると常に自分の性質がそういうもので、これまでもそうで、今後もその問題はついて回ると思い込みがち。

ありがとう、気軽におしゃべりさせてくれる友達…。

 

話す相手が好きとか嫌いとかではなく(それもあるけど)、

無知を晒したくないだとか、感情を否定されたくないとか、

自分を守る壁だとか身代わりを差し出すようなことを望むとき、そんな感じのコミュニケーションになるんだろうな。

 

おしまい。

Lesson 5

2021年01月04日(月)

 

年は明けたけど、忘れないうちに昨年の話をメモしておきたい。 

 

先に辞めていった同期に10月頃に会った際に言われた「どんなことが自分の幸せか考えたりしている?」という言葉をキッカケにどんな状態が自分にとって幸せか意識するようになった。

上記の言葉をかけてもらった際、回答に困り、気まずかったのを覚えている。

 

自分がどのように感じているか、どのようなものを求めているか等について、快不快への認識が鈍かった。

ていうか皆そんなに自分の幸不幸について考えてるのか?

 

以降、自分の気持ちの変化を把握することが、何か行動を起こす際の目的の一つになっている。

自分の感情をまだ上手く理解できていないけれど、より快適なものに近づくことができている。

 

あと、幸せが何か意識するとその方向へ向かいやすくなった気がする。

好きなものにお金を使うことへの躊躇いが薄くなった。

行動して自分が幸福であることが大事。

より幸福な状態に近づくことを日々意識してるとハッピー。

 

自分のことを幸福な状態に置いていくことを躊躇わない。罪悪感を持たない。

 

同じことの影響として、一日何もしない日があっても後ろめたくなくなった。

前は一日を無為に過ごすと落ち込むので、映画を見たり何かしら行動していたけれど、

 最近は家事と昼寝で休日が終わっても特に何も思わなくなった。

何か変化があることは大事だけど、落ち込まないことの方が大事だと思うので。

同じ時間を使ってめちゃめちゃ色々吸収したり、表現したりできる人もいるけれど、

少なくとも今の自分はそういう人間ではないので~。

 

ひょっとして自分を適度にコントロールしながら強迫観念を持たずに、楽しんで行動できるのが健康的で良いのでは?!

 

2021年も頑張れる範囲で最大限頑張りま~す!

 

レモンを一つ買おう

2020年10月18日(日)

 

最近新しいものを試すことが得意になってきた。

例えば、コンビニで今まで買ったことがないものを買ってみたりとか、入ったことのないお店に入ってみたりとか、いつものお店でいつものメニューとは違うものを頼んでみたりとか。

そんな小さなことに得意も不得意もあるかいと思うけれど、ある。

 

漠然とした方向性だけれど、今までは最小の行動から最大の幸福を摂取することを念頭に置いて物事を考えていた。

一方最近は、新しいことはそれ自体が強くポジティブな意味を持つと思っている。

 

前者に則って行動していたこれまでは、一度見つけた良いものを繰り返すことが平和で正しかった。

経験のないことを試していくのは、当たり前だけどいつもいい結果に終わるわけではない。好みとは異なる本、映画や食べ物、出来事に遭遇することもある。

おそらく自分はそういったネガティブなことを極端に恐れていたのだと思う。

 

いざあれやこれや試すようになってみると、経験は経験でしかないというか。期待したものとは違うものが目の前に現れた時も、長期的に見て大した意味なんてないんだなと思う。

例えば、ちょっと高い食べ物を買って美味しくなかったとしても、また別のものを食べながら、美味しいものを探せばいいだけだし。

うまくいかなかったとしてもそれは失敗ではなくて、一つの方法を試したに過ぎないみたいなことを言ってた科学者いませんか?

知らんけどいるでしょ。

そういうことが、実感として落とし込まれてきた。日常の中の小さな判断で変化を感じられるのだから、一つ自分の性質になりつつあると言える気がする。

 

ネガティブな出来事への耐性は、自己肯定感というか、ちょっとした出来事に揺るがない幸福感だったり、充実感だったり、安心感だったり、自分のことを理解してくれて受け入れてくれる人がいることに支えられていると思う。

 

卵が先か、ニワトリが先かの話になるけれど、この一年くらいで自己肯定感が高まるにつれて、自分に対して好意的に思ってくれる友達が多くいることに気づけるようになった。

そうして友達がいることに、また幸福感を感じられるという循環がある。

 

まだ文章にして残しておきたいことがある気がするけれど、いったん区切って公開しないと一生グジグジ編集してそうなので、とりあえず今はこんなことを考えてます。

マップ上、青い点、今どこ

2020年8月半ば

 

夏休み、昼過ぎに家を出て、約4時間でいろいろ回って満足して家に帰ってきた

東京に越す前は、埼玉に10年以上住んできた

 

広義の近所の中に、欲しいもの、寄りたい場所がおおよそまとまっている

どこの町もそうではないんだろうけど、この体験に東京に引っ越してきたことを強く感じた

ふと思い立って家から出ていける範囲にあるものの幅広さ、選択肢の多さ、近さ

どこまで行っても何かあるんじゃないかと思えるところとか

 

2個隣の駅まで電車で行って、寄道しながら徒歩で帰ってきた

自分の最寄に近づくほど道幅が狭くなって、なんとなく規模がコンパクトになっていくのを感じる

太い血管の近くにある町と、毛細血管沿いにある町のイメージ

毛細血管の間にあるわが町

広々しているのが好きな私は、道幅の狭い、肩が縮こまったようなこの町があまり好きではなかった

けれど隣の隣の駅で、ちょっと居心地が悪い自分に気づく

きゅっと縮こまった分、少し寂しくないような気がする

僕のがちょっと遠いってだけだよ。

2020.8.30

 

数年前から音楽をよく聞くようになって、昨年くらいから映画をよく見るようになって気付いたことがある。

それは何かを好きと思う、良さが分かる、或いは受け入れられるようになるには順番があるということ。

 

例えば2019年のりんご音楽祭(フェス)でGEZANに感動して帰ってから、NUMBER GIRLの良さが分かるようになった。

なんならめちゃめちゃかっこいいと思う。

GEZAN自体もフェスで聞くまではピンと来ていなかったけれど、生でパフォーマンスを見ると信じられないくらいかっこ良くて、それ以来よく聞く。

(話は逸れるけど、GEZANはその場に足を運んで体験しないと好きにならなかったと思うし、生GEZAN→NUMBER GIRLでないと、両方をすぐ好きになるルートはなかった気がする。)

 

映画では具体的にある映画の後に見なかったら、別の映画を受け入れられなかっただろうということはないけれど、監督や役者さん、テーマ、表現の仕方が少しづつ繋がっていく感覚にすごく幸福を感じる。

良いと思わなかったものを良いと思うのではなく、良いと思えるポイントが増えてく感じ。

 

これは別に音楽や映画に限った話ではなくて、服やごはん、人間関係と何でも言えることだと思う。

周りのみんなが好きと言っていることに対して、特に思うところがなくても全然問題ない。

まだこれから自分は変わっていく訳なので。

これからも見聞きして遊んで、好きだと思えるものが増えて行くことへの確信のおかげで、最近は多少気持ちが楽かもしれない。

 

みんなには恥ずかしくて言えはしないけど

2020.07.19(日)

 

ブログを投稿するとき、いつもは前日に書いたものを見直して、

何かあれば手直ししたりしているんだけど、前回は何も考えずにバーーーっと書いてそのまま投稿をした。

いつもと比べても酷い出来で反省をした。

 

プロでも何でもないのに、数分でも時間を割いてリンクを踏んでくれる人がいるんだから、

何を思ってこのブログを書いているのかくらい、お伝えしておきたいなあと思う。

 

このブログは、今のことを記録し、書いたものが過去になったとき、

未来の参考になればいいと思って書いている。

 

タイトルの「天気予報」もそんな意味合いで、小学校の頃テレビで見た天気の話からとってきている。

降水確率とは、過去のその日と同一の気象条件の時に、雨が降った割合だそうだ。

今の天気の状態から判断した雨の降る可能性だと思っていたが、そうではないらしかった。(同じことを言っている気もする。)

ニュアンスの違いでしかない気もするけど、

現在の条件から直接未来を予報しているのではなく、過去を参照して未来を推測しているというのは、

漠然と思っていた降水確率というものとは違っており、今でも記憶に残っている。

 

よかろうと悪かろうと自分が何を考えているか残したい。

あとから見返したときに自分が騙されては困るので、嘘は書かないようにしている(或いは嘘をついたことを含めて記録しておきたい)。

そうやってピンを打つようなイメージでブログを書いている。

そのピン繋ぐことで、元々どこにいてどの方向に進んだか、今後どういう方向に進みうるのかが少しはわかるのではないか。

 そうしていつかの自分の役に立てばラッキーだ。

 

人が読んで良いことがあるかは分からないし、意識しないようにしている。

とはいうものの、一人では頑張れない気がするので、

お時間があればたまに読んでみてください。